囲碁ルール考
(塚本惠一提案)
2003(平成15)年8月23日〜8月27日


第1回
(8/23)
囲碁のルールは最初から成文化されたものではなく、3大ルールで ある、交互着手、石取り、劫が口伝されて定着してきたものです。 近年の囲碁ルール研究は、そのようにして形成された慣習を成文化 することが第一の目標でした。
それらの中には、交互着手に反するような「パス」という概念など、 普通の碁打ちには意味を理解しがたいものも含まれています。
また、世界に眼を向ければ、日本の囲碁と異なる中国ルールなどが 実施されています。いや、日本においても色々な規約が考えられて きたことは管理人さんの労作であるこのHPでお分かりいただける ことと存じます。

それらの色々な囲碁ルールについて、何故そのような規定をするに 至ったのか、という目的を説明したものは少ないように思います。 ルール制定者の意図を推し量るのは困難ですが、残された規定から こう考えるのが妥当とすべきものはあります。これから少しづつ、 そうした囲碁ルールに関する私見を披露させていただきたいと存じ ます。

最初に、親しみのある日本古来の囲碁ルールを私流に書いてみます。 不足や厳密でない点は、この論考の中で少しづつ補うこととさせて いただきます。

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日本式囲碁規約(塚本案)V0.01

第1条(目的)
 囲碁は相互信頼の精神に基づき地の多少を争うことを目的とする。
第2条(定義)
 ???
第3条(交互着手)
 対局者は先手側が黒石、後手側が白石をもって、交互に一石づつ
 着手しなければならない。
第4条(石取り)
 1.着手後に相手の石の隣接する空点の全てを自分の石で占めた
  場合はその相手の石を取り上げる。この場合、石を取り上げた
  ことをもって着手の完了とする。石の取り上げが不完全な場合
  はそれを行うべき者の負けとする。
 2.前号によらず自殺手を着手した者は負けとする。
第5条(劫)
 劫を取られた側が相手側の劫取りの直後の着手で劫を取り返した
 場合は負けとする。
第6条(終局)
 1.地が確定したと判断した対局者は終局を宣言する。この際、
  生き石、死に石、セキ、及び手入れを要する箇所と手入れの数
  を明示する。
 2.終局宣言された側が終局に同意できない場合は双方が着手に
  より確認する。この着手を確認着手と称す。終局を宣言した側
  が確認着手の先着権をもつ。確認着手は義務ではなく着手放棄
  をすることもできる。
 3.(打ち上げ手数の省略)終局確認により死石と判断された石
  はそのまま取り上げる。
 4.(劫尽くし)終局確認では同一の劫での取り返しは行うこと
  ができない。但し、ある劫について劫を取られた側が着手放棄
  した場合は着手放棄した側にその劫を取る権利が移る。
 5.終局宣言の誤りが判明した場合、終局宣言された側は、相互
  信頼の精神に基づき対局の再開または宣言内容の訂正を求める
  ことができる。終局宣言された側がいずれも選べない場合は、
  終局宣言した側の負けとする。
第7条(投了)
 対局の途中または終局確認の際に、一方の対局者が負けを認めて
 投了することができる。
第8条(無勝負)
 盤上に同一局面が再現するなどの事情で、終局までの着手が続行
 できない場合は両対局者の合意により無勝負とする。

第2回
(8/24)
日本式囲碁規約(塚本案)V0.01の第2条(定義)を「???」と しましたが、そこにどのような用語を定義しておく必要があるので しょうか。
他の条項で用いた囲碁用語は、
「地」「黒石」「白石」「石」「着手」「空点」「取り」「自殺手」 「劫」「生き」「死に」「セキ」「手入れ」
の13語です。また「盤」の定義も不可欠でしょう。

これらの中で最も重要で、かつ、定義が難しいのが「地」です。

囲碁の3大ルールは「交互着手、石取り、劫」と言われます。それ で「囲碁はルールは簡単だが理解しにくい」というのが通説になっ ています。実は、3大ルールは着手に関するルールに過ぎず、肝心 のゲームの目的はそれに含まれていません。日本式の囲碁の目的は 相手より大きな地を作ることです。

塚本案 第1条(目的)
 囲碁は相互信頼の精神に基づき地の多少を争うことを目的とする。

これを理解して貰えない限り、囲碁は訳の分からない石並べですね。
ところが、この「地」というのが初心者にも高級棋人にも難しい。
なので、囲碁のルールは簡単ではない、というのが本当です。

林裕氏の「囲碁百科辞典」に依れば、「地」は、
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活きた石で囲んだ自己の所有権のある地域。日本ルールの碁は最終 的にはこの「地」と「ハマ」の多寡で勝負を争う。
----
と説明されています。この前半の定義には「活きた石」と「囲んだ」 という二つの囲碁用語が用いられています。

慣習の成文化を図った初期の囲碁ルール研究では、この石の生死を 定義することが問題になりました。しかし、囲碁は複雑な幾何学で あって、眼が二つあれば生き、というような単純な定義はない、と 考えられるようになりました。実は、それは本質的に無理なのです。

┼┼┼┼┼┼┼┼┼┤ 左図のような黒は生きでも死にでもないの
┼┼┼○○○○○○┤ です。セキでもありません。
┼┼○○●●●●○┤ 
┼┼○●●┼┼●○┤ ルールで生死を定めるなら、本図を中手や
┼┼○●┼○○●○┤ セキと区別できなければなりません。
┴┴○●┴┴┴●○┘ 

上図は、高級棋人には死活未決着と判断されます。しかし、棋力の 低い人が囲碁ルールだけを頼りに解決できる問題ではありません。
つまり、石の生死とは、対局者が交互着手の結果として決まる、と いうのが真実なのです。石の生死はゲームの結果です。

それが「パス」という概念を想起させることに繋がりました。

第3回
(8/25)
池田敏雄氏の「囲碁ルールについて」から引用します。
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…万年劫問題や半劫つぎ、手入れ問題、ハネゼキ等が生じた場合、 交互着手が権利であるのか、義務であるのか、或いは権利であり同 時に義務とすべきか、極めて重要な問題となる。
又終局の規定がそれと関連して重要な問題となる。A一方的な終局 宣言などはあり得ないし、Bもし着手の権利が義務であるとするな らば…これは何としてもおかしいから、着手の権利を放棄しておく ことを可能にするべきである…
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●●●●●○┐ 上記Bでは左図を挙げて説明されています。
├○●●●○○ 囲碁にパスがないとして、黒番なら、地が多い黒
○○○●●○┤ が全滅してしまうという例です。
○○●●●○○
●●●●●○┤ 私なら、もっと単純な例を挙げます。ダメのない
├●○○○┼○ 終局で、黒白共に二眼の生き。先に打つ方が一眼
└●○○○○┘ になって取られて大敗です。

こういう考え方で池田敏雄氏は着手放棄を可能と考えられました。 他のルール研究家の多くも、死活は実戦的に解決すべき、と考え、 終局の定義をパスの連続(通常は2回、3回のルールもある。)と するものが多く作られました。このように、死活の定義の問題から 囲碁ルール研究家が囲碁にパスを導入しようとしたのです。

しかし、この「パスの連続で終局」という考え方には根本的な欠陥 があります。ヨセが済んでいない終盤でパスが連続したら。地は未 確定なのですから地を数えることができません。

また、パスを可能とすると、地の計算の慣習と合わなくなるケース が多くなります。日本の囲碁の慣習では、終局したらハマや死石の 打ち上げ手数は省略できますし、着手は義務なので相手が打たない 限り劫を取り返すことはできません。それで、本劫は手入れ要だが 一手ヨセ劫は手入れ不要とされてきたのです。

池田敏雄氏の誤り、正確には日本式囲碁の慣習の誤解、は、上記A の「一方的な終局宣言などはあり得ない」という考え方が原因です。

日本の囲碁では、
・対局者の一方が地が確定したことを判断できる。
ことが対局の前提として仮定されています。で、「終わりですね?」 という確認から終局の手続きが始まるのです。

パスの連続で終局というのがもっともらしくても、それも、
・対局者の一方が自分の着手では地は増えないと判断できる。
ことを仮定しているのです。少しも対局を簡単にしていません。

他のゲームで一方的な終局宣言が当然の例に双六があります。特に、 サイコロを振って出た目ちょうどでなければ余った目の分戻る、と いうタイプが適切でしょう。この双六の着手であるサイコロを振る ことは義務である場合が多そうです。それでも、上がりになった者 に「サイコロを振って戻れ」とは誰も言いませんね。

第4回
(8/26)
日本囲碁規約の「死活」の定義は以下の通りです。
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第7条(死活)
 1、相手方の着手により取られない石、又は取られても新たに相
   手方に取られない石を生じうる石は「活き石」という。活き
   石以外の石は「死に石」という。
 2、第九条の「対局の停止」後での死活確認の際における同一の
   劫での取り返しは、行うことができない。ただし、劫を取ら
   れた方が取り返す劫のそれぞれにつき着手放棄を行った後は、
   新たにその劫を取ることができる。
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この文章は難解です。逐条解説を頼りに読んでみましょう。

┌●┬●○┬┬ ┌┬┬┬●○┬┬ ┌○○○┬●○┬┬ 
●●●●○┼┼ ●●●●●○┼┼ ●●●●●●○┼┼ 
○○○○○┼┼ ○○○○○○┼┼ ○○○○○○○┼┼ 
├┼┼┼┼┼┼ ├┼┼┼┼┼┼┼ ├┼┼┼┼┼┼┼┼ 

上の3図の黒は「相手方の着手により取られない石」で活き石。

┌★○○┬┬ ⇒ ◇┬○○┬┬  ⇒ ┌◆○○┬┬ 
○○●○┼┼ ⇒ ○○●○┼┼  ⇒ ├┼●○┼┼ 
●●●┼┼┼ ⇒ ●●●┼┼┼  ⇒ ●●●┼┼┼ 
├┼┼┼┼┼ ⇒ ├┼┼┼┼┼  ⇒ ├┼┼┼┼┼ 

上図の★は「取られても新たに相手方に取られない石を生じうる石」 なので活き石、ということのようです。

例えば、対局の初手で星に打ったとします。この星の石は活き石で しょうか、それとも死に石なのでしょうか?

日本囲碁規約では決められないというのが正解だと思います。初手 で打った星の石は活きて終局することが多そうですが、取られたり 捨てたりする碁もありえるからです。

この日本囲碁規約第7条1号は「終局において」という言葉が省略 されていると解釈すれば、多少は分かりやすそうです。それでも、 初手を打った時点で、白が終局を宣言し、黒が同意したら?

これが、純碁以外の全ての囲碁に共通する本質的な問題なのです。 どんな囲碁ルールでも、対局者が終局を目指して着手し続けること を暗黙の前提としています。そうすることで、石の生死が確定し、 地が確定する。そうであるから日本式の「地+ハマ」という計算が 可能になるのです。これは中国式の「置石数+空点数」を計算する 場合でも同様です。

後に囲碁ルールの歴史を概観することになりますが、「地」の概念 の発見が日本式囲碁を生み出し、中国式囲碁から切り賃を除くこと になりました。その時点から、対局者が「地」を理解して「地」が 確定するまで着手し続けることが囲碁の対局の大前提になっている のです。その前提で、終局時点での「死活」を定めたのが日本囲碁 規約第7条1号と言えます。「死活」は日本式囲碁が誕生したとき から、着手によって実戦的に決定されるものであったのです。

第5回
(8/26)
---- from 日本囲碁規約
第7条(死活)
 2、第九条の「対局の停止」後での死活確認の際における同一の
   劫での取り返しは、行うことができない。ただし、劫を取ら
   れた方が取り返す劫のそれぞれにつき着手放棄を行った後は、
   新たにその劫を取ることができる。
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第7条2号は更に難解な感があります。意味もとりにくければ意図 も汲みにくいものに見えるでしょう。私の規約案では、
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 4.(劫尽くし)終局確認では同一の劫での取り返しは行うこと
  ができない。但し、ある劫について劫を取られた側が着手放棄
  した場合は着手放棄した側にその劫を取る権利が移る。
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と表現してみました。内容は同等と考えています。

┌●┬●●┬┬┬ 左図の黒は眼と欠け眼で死。これは常識ですが、
●●●○○○┼┼ 日本囲碁規約に依って死に石と判断するには、
○○○┼┼┼┼┼ 終局後に白が黒を打ち上げられることを示さな
├┼┼┼┼┼┼┼ ければなりません。

┌●┬●○○┬┬ 白アテ、黒手抜き、白トリ、黒トリカエシ、
●●●○○○┼┼ 白アテとなって左図です。黒は手抜きで白は劫
○○○┼┼┼┼┼ を取ることになります。この劫に白が勝てない
├┼┼┼┼┼┼┼ のなら、隅の黒は死に石ではありません。

と書けば、これが「両劫に仮生ひとつ」問題であるとお分かりいた だけると思います。同じ盤面に両劫セキがあったら黒に無限の劫材 があることになって取れない、という問題です。

これは「二眼で活き」と教わって碁を覚える日本の碁打ちには相当 な違和感があったのだと想像します。明確な理論的根拠もなしに、 いつの間にか「両劫仮生はなし」という慣習になってしまったよう に見えます。恐らく、後付けで、死活は部分的に考えるという独立 死活論が生じたのでしょう。盤上の他の部分は見ずに「劫尽くし」 が可能としたのです。

日本囲碁規約の第7条2号はそれを一般化したものです。終局確認 では、「劫尽くし」が行われたと考え、同一の劫での取り返しは、 行うことができない − なので、両劫仮生はなしとなります。

同様に、劫尽くしが可能なので隅の曲がり四目も死となります。

囲碁ルールの議論では珍形や奇形を持ち出すことが多いのですが、 劫尽くしの考え方を説明するのに隅の曲がり四目を例とするのさえ 私には遊びすぎに思えます。上述の「眼+欠け眼」の例で十分なの ですから。

第7条2号の後半は、私の案の「ある劫について劫を取られた側が 着手放棄した場合は着手放棄した側にその劫を取る権利が移る。」 にあたります。手っ取り早く言えば「ヨセ劫はパスしたら取れる」 という規定です。

●○┬┬●○┬┬ 左図は白から1手ヨセ劫にする手段が残されて
├●●●●○┼┼ いますが、白がやってこないまま終局になった
●●○○○○┼┼ 場合は黒は手入れ不要という慣習でした。この
○○┼┼┼┼┼┼ 理論的根拠を「ヨセ劫はパスしたら取れる」で
├┼┼┼┼┼┼┼ 与えようとしたのです。

上図の1手ヨセ劫残りがなぜ手入れ不要と考えられたのか。それは、 独立死活論(劫尽くし)に加えて「碁にパスはない」すなわち着手 は義務という原則があったからです。白劫取りの後、黒が打たない 限り、白は本劫に持ち込めません。黒が終局の確認を求めた時点で 白は隅の石を取られることを認めるしかありません。で、打ち上げ 手数の省略の原則から、黒は着手せずに隅の石を取れるのです。

終局までは着手は義務、終局確認では着手放棄も可能。この原則が 日本式の囲碁の考え方の根底にあります。

第6回
(8/27)
終局を規定できれば、石の生死が定義でき、地も定義できることに なります。その終局の規定が、日本式囲碁の慣習の成文化において 最も悩ましい問題です。

パスの連続で終局とした日本囲碁規約を見てみましょう。
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第九条(終局)
 1、一方が着手を放棄し、次いで相手方も放棄した時点で「対
  局の停止」となる。
 2、対局の停止後、双方が石の死活及び地を確認し、合意する
  ことにより対局は終了する。これを「終局」という。
 3、対局の停止後、一方が対局の再開を要請した場合は、相手
  方は先着する権利を有し、これに応じなければならない。
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これは、少なくとも形式的には、私が理解する日本式囲碁の慣習と 異なります。日本式囲碁は、
・終局の手続きは、着手放棄ではなく、終局宣言で始まる。
・終局までは着手は義務、終局確認では着手放棄も可能。
であるからです。

図1
●○┬┬●○┬┬ 本図と両劫セキが残された状態で黒が終局しよ
├●●●●○┼┼ うとする場合を例として、日本囲碁規約第九条
●●○○○○┼┼ の規定を読んでみたいと思います。
○○┼┼┼┼┼┼ 
├┼┼┼┼┼┼┼ 

黒が対局を停止し次いで白も対局を停止した場合は、そのまま2号 の「石の死活及び地を確認」に入りますから、慣習と同等と考えて 差し支えありません。図1は黒の手入れ不要と判断されます。

黒が対局を停止したのに白が対局の再開を要請した場合は、3号に より黒は応じるよりなく、対局の続行となります。ここで何が起き るのでしょうか。

黒は終局と思って対局を停止したのですから、黒には打つ所はない 筈です。なので、黒は恐らくパスします。白は劫を取ります。黒は 両劫セキを劫材にすると無勝負になりそうなのでパスします。白は 3の一にアタリを打って本劫に持ち込みます。

かくして、逐条解説で「手入れ不要」とされている図1に手入れを 怠った黒は無勝負に甘んじるよりなくなります。

これは明らかに慣習と異なります。手順を再掲します。
(対局停止前)白着手−黒パス−白劫取り−黒パス−白アタリ 黒は2回パスさせられています。これでは勝負がひっくり返っても 不思議ではありません。

つまり、黒の対局停止宣言であるパスに対して白の対局の再開要請 を認めるとするなら、慣習と異なる手順が可能になる訳です。

こういう読み方が可能な日本囲碁規約は慣習の成文化とは言えない と考えています。

同様の問題が日常的な事例で生じます。終局の手続きの中でのダメ 詰めです。このダメ詰めは棋譜に残されるべき着手なのでしょうか、 それとも、終局後の確認作業なのでしょうか。

こういう問題が残されていると、単純に規約の文章を解釈する、と いう行為では解決できなくなります。あるべき規約論まで遡ること が必至となるからです。それが、私が規約案を書いてみた動機です。

閑話休題
(8/27)
ちょっと、ひと息いれたくなりました。

私はルール議論で珍形・奇形を例に使うのは好みませんが、
珍形・奇形そのものは、それなりに面白いものだと思います。

隅の曲がり四目の仲間を紹介します。

○○○┬●○┬○┬┬  本家本元です。
※●●●●○┼○┼┼
●●○○○┼○┼┼┼ 黒は手を出せません。
○○○┼┼○┼┼┼┼ 白は※で取り番の劫にできます。
├┼┼┼┼┼┼┼┼┼

●┬●┬○●●○●┬ 劫含みの大中小中です。
├●○○○※●○●┼
○○●●○○○○●┼ 黒は手を出せません。
├○●┼●●●●●┼ 白は※で取り番の劫にできます。
○○●●┼●┼┼┼┼
●●●┼●┼┼┼┼┼
├┼┼┼┼┼┼┼┼┼

○○○┬●●●○○┬ 劫含みの五中の攻め合いです。
●●┼○●○●●○┼
●●●○●○○●○┼ 黒が5子を取れば、白中手、黒手抜き、
○○○○●○○●○┼ 白中手、黒手抜き、白中手、黒手抜き、
●●●○●※●○○┼ 白中手、黒手抜き、白5子取りで白勝ち。
├┼●○●●○┼○┼ なので、黒は手を出せません。
├●┼●○○┼○○┼ 白は※で取り番の劫にできます。
●●●●┼○○○┼┼
├┼┼┼┼┼┼┼┼┼

第7回
(8/27)
さて、こうした難しい問題をはらんだ「地」という概念がどうして 囲碁に持ち込まれたかを考えてみたいと思います。

日本式の囲碁は古代中国で生まれたものです。中国古代の囲碁文献 を見ると、何子取って何路あるから何目勝ち、と記されているもの があります。これは明らかに日本式です。いや、「明」の時代より 前に文献に残された中国の古碁は全て日本式と推定できるでしょう。 古代中国では日本式が主流だったのです。

それが「明」の時代に中国式に変わったように見えます。しかし、 さらに歴史を遡ると、孔子や孟子の時代の碁である「エキ」はどう やら中国式であったようなのです。

つまり、古代中国では日本式の囲碁すなわち「棋」が主流でしたが、 その当時は切り賃のある古い中国式も実施されていたらしいのです。

そこで、日本式と中国式の内容を比べてみます。そこで手掛かりに なるのが王銘エン先生が提唱された「純碁」です。

囲碁の一番最初の形が純碁で、それから切り賃のある古い中国式が 生まれ、更に日本式という変形が生じた。そう考えるのが内容的に 極めて自然と考えられます。

純碁は、着手の3大ルールを前提にして「置き石の多い方が勝ち」 とするゲームです。正確に言えば、純碁の終盤ではパスが必要にな りますから、交互着手とは少し違う、という見方もできます。

切り賃のある古い中国式は「置き石の数と置き石で囲んだ目の数の 和の多い方が勝ち」とするゲームです。まともな囲碁の終局状態に なれば、純碁と切り賃のある古い中国式の結果は一致します。先に 「純碁の終盤ではパスが必要」と書きましたが、日本式で考えれば、 この「純碁の終盤」は「碁が終わった後のダメ詰めや作る作業」に あたります。なので、碁が終わるまでは交互着手、というルールは 同じと考えることもできます。

純碁の解説から引用します。
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1図        2図        3図
┌┬┬●○○┬○┐ ×××●○○┬○┐ ┌┬┬●○○┬○┐ 
●●┼●○○┼┼┤ ●●×●○○┼┼┤ ●●┼●○○○○○ 
●○●●●●○○○ ●○●●●●○○○ ●○●●●●○○○ 
○○○○○●●○● ○○○○○●●○● ○○○○○●●○● 
├┼○●●┼●●● ├┼○●●×●●● ├○○●●●●●● 
├┼○●●┼○┼┤ ├┼○●●×××× ○○○●●●●●● 
├┼○○●┼┼┼┤ ├┼○○●×××× ○○○○●●●●● 
├┼○●●┼●┼┤ ├┼○●●×●×× ├○○●●●●●● 
└┴○○○●┴┴┘ └┴○○○●××× ○○○○○●┴●┘ 

(1図は)日本ルールでは黒の五目勝ちになります。中国ルールで
は2図、地の中の死に石を取り除き、黒地(×)をいったん全部黒
石とみなし、そして盤上にある石と合計した数で勝負します。その
結果、黒43子になり碁盤の半分の40と1/2より2と1/2多い分だけ、
黒の2と1/2子勝ちということになります。 一子が二目にあたりま
すので、日本ルールと結果が一致します。
この碁に「切賃」を適用しますと、黒が一石にたいし白が二カ所に
分かれていますので、黒より一ヶ所多い分白が二目コミを出さなく
てはなりません。そのため黒七目勝ち、中国ルールでは3と1/2子
勝ちと結果が変わります。
今の碁を「純碁」で打ってみましょう。3図、…まだ着手がつづき、
終局となります。数えてみると黒石41、白石34で黒七目勝ちです。
つまり、「切賃」を適用した結果と同じになります。図3では生存
のために残された白眼四つと黒眼二つはいまのルールでは地や石と
みなされますが、「純碁」ではただの空点にすぎません。
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王銘エン先生の説明は現代の日本式と中国式から歴史を遡っている 訳です。純碁が最初にあって、その殆ど意味のない「終盤」を省略 しようとしたのが切り賃のある古い中国式なのは明白でしょう。

ここで、切り賃のない中国式と日本式の結果が一致することに注意 して下さい。中国式と日本式の計算には手止まりに絡む微妙な差が ありますが、それを無視すれば二つの囲碁はほぼ同等です。

古代中国で「エキ」と呼ばれた中国式を行う者の中に「地」を考え れば結果がほぼ同じになることに気付いた者が現れたのでしょう。 中国式の「置き石の数と置き石で囲んだ目の数の和」は大きな数に なります。盤の目数の半分ですから約180です。日本式の「地」 なら、両方の地を合わせて100くらいで収まることも多い訳です。 しかも、日本式ならダメ詰めをしなくても勝敗が分かります。

そこで、「地」に気付いた者は形勢判断の基本である目算が容易に 行えるようになったのです。これは大発見です。「地」の発見者は 抜群の成績を収めたに違いないと想像できます。そして、皆が彼に 強い理由を尋ねることになります。

そうして「地」の重要性が囲碁人の共通認識になれば、もう、置き 石の数を争うことは本質とは言えなくなり、「地」の多少を争えば よい、という発想の転換がなされます。これが日本式囲碁の誕生と 考えているのです。

それが中国式にも逆輸入されて「切り賃」という計算法が生じた。 囲碁の歴史をたどれば、これらは自然な推移と言えるでしょう。

第8回
(8/27)
「地」の発見、いや、「地による形勢判断」という大発明が囲碁の 目的の認識を改めさせた。これが日本式囲碁の立脚点です。

これを思えば、古い日本の囲碁の習慣のいくつかも故あってのもの と考えられます。ダメ詰めを嫌う、とか、投了の美学とか。

同時に、囲碁は人智の及ばぬゲームである、という感があります。 私は詰碁を作っていますが、しばしば、自分は囲碁を全く分かって いない、ということに気付かされます。自分で作った詰碁を見て、 囲碁にはこんなことが起きるのか、と、戦慄を覚えることが少なく ないのです。

冒頭に挙げた規約案のうち、一つだけ、日本式から離れて中国式に 戻したいところがあります。それは独立死活論です。

劫尽くしは、本来の囲碁から見て、あまりな便法と言うべきと考え ているのです。例として2図を挙げます。

┌○┬●○●○●┐  ○○○┬●○●┬●
○●●●○●○┼●  ├●●●●○○●●
├●┼○○●○○○  ●●○○○○●●○
●●○┼○●○○┤  ●●○┼●●●○○
○○○○○●○○○  ○○○●●●○┼○
├○┼○┼●●●●  ├○●●○○○○○
○┼○┼┼●┼┼┤  ○●●○○┼┼●●
├┼○┼┼●┼●┤  ●●○┼○●●●┤
└┴○┴┴●┴┴┘  ●○○○○●┴●●

上左図は、左上が「隅の曲がり四目」の形ですが、右上のセキには 白から消すことができない劫材が残されています。この図の左上を 劫尽くしにより死とするのは無理があると考えます。
上右図は、左上が「隅の曲がり四目」の形ですが、それを囲む白が 両劫活きの状態です。この図も左上を劫尽くしにより死とするのは 無理があると考えます。ただしこの右上図の場合は、全局的死活論 でも左上は死と決着する形です。

劫尽くしは実戦的に着手で解決すべきものとしなければならないと 考えています。そのためには盤上の同型の再現を禁じることが至当 と考えています。

塚本案の修正版です。
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日本式囲碁規約(塚本案)V0.02
* 第5条(同型再現の禁)
 着手後の盤上の局面がその対局に現れた過去の盤上の局面と同じ
 になることを「同型の再現」と称す。対局者の一方が着手により
 同型の再現を行った場合、相手は以下の1、2のいずれかを選択
 できる。
 1.同型の再現であることを宣言し同型の再現につながった着手
  を変更させる。
 2.自分の着手を行う。この場合、同型の再現につながった着手
  は正当な着手とみなされる。
第6条(終局)
 1.地が確定したと判断した対局者は終局を宣言する。この際、
  生き石、死に石、セキ、及び手入れを要する箇所と手入れの数
  を明示する。
 2.終局宣言された側が終局に同意できない場合は双方が着手に
  より確認する。この着手を確認着手と称す。終局を宣言した側
  が確認着手の先着権をもつ。確認着手は義務ではなく着手放棄
  をすることもできる。
 3.(打ち上げ手数の省略)終局確認により死石と判断された石
  はそのまま取り上げる。
* 4.(劫尽くし)−削除
 5.終局宣言の誤りが判明した場合、終局宣言された側は、相互
  信頼の精神に基づき対局の再開または宣言内容の訂正を求める
  ことができる。終局宣言された側がいずれも選べない場合は、
  終局宣言した側の負けとする。
* 第8条(無勝負)−削除
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今回の論考は以上で一段落とさせていただきます。


囲碁ルール考−塚本惠一提案